三光 作戦

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三光とは、焼光(焼き尽くす)・殺光(殺し尽くす)・搶光 (そうこう) (奪い尽くす)。. まだ「三滅作戦」なら、プロパガンダにもなろうというのにw. サンコウ サクセン トワ ナンダッタカ : チュウゴクジン ノ ミタ ニホン ノ センソウ. 北支那方面軍司令官岡村寧次の五一大掃蕩の一環として、聯隊を指揮し冀中作戦を展開した陸軍少将の証言と、その被害者の証言を「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋する.

では、日本軍がとった「三光作戦」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。実は、しだいに範囲(カテゴリー)が広がり、あれもこれもといった感じになっているのです。 藤原 彰 ・元一橋大学教授の見解を見ることにします。以下は季刊誌「戦争責任研究」(1998年秋季号)に掲載された〈「三光作戦」と北支那方面軍〉からの引用です。 まず、日本軍の反日根拠地に対する掃討作戦について記した後、次のようにつづきます。 〈 だが、(これらの掃討作戦が)失敗に終ったとはいえ、 未治安地区にたいする日本軍の燼滅掃蕩作戦、 これにともなう遮断壕の構築や無住地帯の設定によって、 華北の民衆の蒙った被害ははかり知れないものがある。 人命の被害だけでも、それを総計すれば、 南京大虐殺や細菌戦の犠牲者とは桁違いの多数に上るだろうことは確かである。〉 そして、 〈 加害者側の数字が一切ないのだから、被害者側の数字に頼るより他はないのだが、これもきわめて大ざっぱな数しか示されていない。・・〉 としたうえで、「三光作戦」の被害について次の結論を導いています。 〈 ここでは姫田光義が中国側の公表された数字をもとにしてあげた 「とりあえず華北全体の被害は将兵の戦死者を除いて『247万人以上』」によっておきたい。 これだけでも、南京大虐殺の10倍もの犠牲者が出ていることになるのである。〉 華北の、しかも将兵の戦死者を除くというのですから一般住民を指すのでしょう、この「247万人以上」 という膨大な死者数は、『「三光作戦」とは何だったか』(姫田 光義著、岩波ブックレット)から引用したものです。 それにしても何とも粗雑な結論の導き方で、これが「大御所」といわれる学者なのかと唖然とさせられます。. 三光作戦の地と抗日戦争史跡を巡り平和を考える旅 北京 3日間. 三光作戦の名称自体が中国語ですから日本軍が中国語の作戦名などつけませんよ。 占領当時の南京の現状報告がニューヨークタイムスの当時の記事にも朝日新聞の記事にも記載がありますが、それによると 「中国軍の焼き払いによる南京の物質的損害を計算すれば、優に万ドルから3000万. 事例番号28あたりから始まるが、「三光作戦」において、日本軍の性犯罪はもっとも非道・残虐になる。 事例番号32、35、40、41に見られるように、青壮年男女を拉致・連行して、男子は東北(満州)・日本へ強制労働へ送り、女子は監禁して長期強姦を. Amazonで勇治, 石田, 利孝, 小野寺, 繁明, 松井, 久士, 井上, 隆, 田中の中国河北省における三光作戦―虐殺の村・北〓村。アマゾンならポイント還元本が多数。勇治, 石田, 三光 作戦 利孝, 小野寺, 繁明, 松井, 久士, 井上, 隆, 田中作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。.

1937年8月から 47年3月まで存続した 中国共産党 直系の 中国 国民革命軍 第8路軍の 略称 。 広義 には 華北 にあったすべての共産党系部隊を 総称 し,さらに全国の共産党系部隊を総称することもある。. 三光 作戦 三光とは「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」という意味で、この作戦のために、日本軍は中国市民を虐殺したと言われている。 しかし、日本側の記録に相当する作戦が出てこないため、実態はよく分かっていない。. 「三光作戦」とは何だったか : 中国人の見た日本の戦争. 日本では 撫順戦犯管理所 等に収容され、後に解放された 中国帰還者連絡会 が 1957年 (昭和32年)に カッパブックス から出版した『 三光 』から、この「三光作戦」という呼称が広がった 。. 問い〉 「『三光』とは中国語なのだから、三光作戦など、そもそも存在しない」という人がいます。実際はどうだったの. 「洗脳」によって造られた幻の「三光作戦」をあたかも歴史的事実のように日本軍を責め続けている。 「南京大虐殺」、「従軍慰安婦」、「三光作戦」、そして「集団自決」、これらは全て「残虐非道の日本軍」という共通項でくくられている。. まず、中国がどう言っているのか見ることにします。なにせ、中国のいうことに追随するのがわれらがメディア、学者らの慣習になっていますので。 代表的なのは、1944(昭和19)年4月、延安の高級幹部会議で毛 沢東が行なった「学習と時局」でしょう。 毛沢東は、「抗日の時期におけるわが党の発展は3つの段階に分けられる」とし、1937(昭和12)年~1940までの第1段階につづけて、以下のように述べています。 〈 第2段階は1941年と1942年である。 日本帝国主義者は反英反米戦争を準備し遂行するために、彼らが武漢陥落のあと、 既に改めた方針、つまり国民党攻撃を主としたものから共産党攻撃を主にしたものに改めたその方針を、 より一層強化し、その主力を共産党の指導するすべての根拠地の周囲に集中し、 連続的な「掃蕩」戦争、残忍な「三光」政策を行ないわが党に打撃を加えることに重きをおいた。 そのため、わが党は1941年と1942年の2ヵ年の間、きわめて困難な地位に立たされた。〉 1941、42年の2ヵ年間というのは、前年の「百団大戦」 を起点とする日本軍との攻防を指したものでしょう。 そこで、百団大戦の説明に入るのが順序ですが、その前に、この作戦を指揮した彭 徳懐(ほう とっかい。左写真)は次のように述べ、百団大戦より前に、日本軍が「三光政策」を実行していたとしています。 〈 この殺光、焼光、搶光 ― 殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす 三光 作戦 ― という三光政策は 日本軍が1939年の夏にもちだしてきたものである。 〉 ― 『彭徳懐自述 』、サイマル出版会、1984年 ― 具体的に、「1939年の夏」の作戦がどれを指しているかがわかりません。彭徳懐の記憶違いという話もあります。とにかく、「三光政策」といっても、人によって「いろいろと違いがありそう」 ということをご確認ください。 (1) 百団大戦について 「百団大戦」というのは、中国側の呼称で、「100個連隊による攻撃作戦」を意味するものだといいます。この作戦を中国は非常に高く位置づけています。もちろん、輝かしい勝利としての位置づけです。 具体的には、1940(昭和15)年8月 、従来の中共軍のゲリラ作戦とは異なり、大兵力をもって鉄道、通信網、鉱山などの生産施設、あるいは日本軍を急襲した作戦をいいます。日本側から見た共産八路軍のこの攻. More 三光 作戦 videos.

さらに、藤原は次のようにつづけます。 〈 この他にも強制連行され労働力として満州その他に送られた膨大な人々、犯された女性、奪われた財産、焼かれた家、数えあげれば際限のない「三光作戦」の被害は、ようやく最近その一端が紹介されるようになった。 これらについては、被害者である中国側の調査が、より精密になることが期待されるが、それよりも加害者側の責任として、日本での史料の発掘、聞きとりの徹底など、為すべきことがたくさん残っているといえるだろう。〉 というような次第で、「三光作戦」の範囲はどんどん広がっています。 もっとも、南京虐殺はどう頑張ったところで、マキシマム30万人 ですが、「三光作戦」ならいくらでも被害を膨らませることが可能ですから、死傷者3500万 に向けて、あらたな「三光作戦」が加わってくるかもしれません。以上を整理しますと、 ① 日本軍の反日根拠地の掃討作戦 ② 遮断壕の構築 ③ 無住地帯 ④ 強制連行 が「三光作戦」の中身のようです。さらに、⑤ 毒ガス作戦を含める例もあります。 藤原元教授は「日本での史料の発掘。聞きとりの徹底など、為すべきことがたくさん残っているといえるだろう」と書いています。この認識に大賛成ですが、私が日本側(軍人、民間人)からの聞き取り調査中、1人の学者、1人の報道人、1人の研究者にも出会ったことがなく、調査に来た痕跡さえありませんでした(南京事件関連を除きます)。 概要は、それぞれの項をお読みください。 ⇒ 検証目次⇒ 総目次⇒ 三光 作戦 トップ. 三光純薬 の株式1株に対して、エーザイの株式0. More 三光 作戦 images. 日本語だと燼滅作戦、中国だと三光作戦と呼んでる 実際にあったかは知らん. 三光作戦で毒ガスによる虐殺があった北坦村を訪問 資料館や犠牲者が眠る北坦村烈士陵園を訪問 見学後、専用車にて北京へ(約200km・約3時間半) 北京: 夜 三光 作戦 :★羊肉のしゃぶしゃぶなど、北京料理の夕食をお召し上がり下さい: 3: 北京. 三光作戦 ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。. · そのあまりの残虐さから、中国では、これらを、焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)した「三光作戦」と名付け、呼んだのです。.

三光作戦とは百団大戦後(用語としてはアジア・太平洋戦争直前から)、華北(19頁)の中国共産党と八路軍が支配し活動する地域と人民に対して、日本軍が展開した経済封鎖を伴う計画的な(この点で南京事件と異なる)燼滅作戦・治安粛正作戦の総称で. >掃討作戦。 北京語では「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」(中国語: 杀光、抢光、烧光)の接尾文字「光」をとって三光作戦(さんこうさくせん)または三光政策(さんこうせいさく)と呼ばれている。. 今日もお立ち寄り有難うございます。 赤旗『日本軍がおこなった「三光作戦』とは? 戦前、中国への侵略戦争が長期持久戦に入ると、日本軍は華北において中国軍がおさえていた地域、とくに中国共産党が解放した抗日根拠地に対して掃討作戦をしました。. あなたは「三光作戦」を知っていますか、坂倉 清,高柳 美知子:1500万人が利用するNo. 1931(昭和6)年11月、江西・福建の2省の境、瑞金に中華ソビエト政府(主席・毛沢東)が成立します。以降、蒋介石は瑞金のソビエト地区を占領するため、数次にわたって攻撃しますが占領することはできませんでした。 1933年10月、封鎖線を敷いて1歩1歩進攻する蒋介石軍の作戦に対して、後方かく乱、輸送線の破壊という共産軍のゲリラ戦術が功を奏せず、大打撃を被ってしまいます。蒋介石軍から見た「第5次掃共戦」の勝利というわけです。これ以降、共産軍の撤退、いわゆる長 征 が始まります。 この、「掃共戦」を指して、中共は「三光政策」と呼び、非難しているのです。 京都大学名誉教授であった貝塚 茂樹 は、自著『毛沢東伝』(岩波新書、1956年)のなかで、朱 徳の考えとして次のように記しています。 〈 いかに(外国人顧問が)有能であっても、外国人による軍隊の指揮は、異国人であるがため、 軍民に対する同情を欠如しているので、敵味方を問わず、 人命を無視した残酷な極端な作戦が強行される傾向がある。 もちろんこの反面には思い切った処置を下しうる利点が存在するけれども、 このような非人道的作戦は、戦争の大局からみると、重大な損害を味方にあたえずにはおかない。 ゼークトにより蒋介石軍がとった、ソヴェート地区の壮丁をみなごろしにする殺光、住家を焼きつくす焼光、 食料を略奪しつくす槍光のいわゆる三光政策は、この例である。〉 重要なことは、日本軍がとったという「三光政策」より以前に、国府軍の「三光政策」が非難されていることです。ということは、「三光政策」は日本軍の作戦に特定されたのものではなく、相手を非難するさいに恣意的に使うものだという疑いがでてきます。そして、この疑いが確からしいということが、次の項が証明していると思います。 なお、異国人が指揮したゆえ云々というのは、台湾での2・28事件を考えたとき、素直に頷くわけにはいきません。. 姫田光義 著 (岩波ブックレット, No. 三光作戦(さんこうさくせん)または三光政策(さんこうせいさく)とは、北京語で「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」(中国語: 杀光、烧光、抢光: 殺光・焼光・搶光注釈 1注釈 2 を意味する用語。蔣介石が「軍事が三分、政治が七分」と称し、保甲連坐法をしき実施した作戦を指し、日本軍の過酷なふるまいに対する中国側の呼称としても用いられた。1931.

日本側が付けた名前ではありません。 日本では「燼滅掃討作戦」「粛清作戦」「治安作戦 」と呼んでいました。 しかしその作戦のあまりの凄まじさのため、 中国側が三光作戦と呼んだ のです。 日本軍は逆に全将兵の心得として. こうした「三光」作戦が行き着いた先に、南京での大虐殺事件があった。 侵略の正当化を許さない 柳条湖事件を起点とするこの「15年戦争」は、41年の太平洋戦争開戦、そして45年の日帝のポツダム宣言受諾=無条件降伏に行き着いた。. 三光作戦がでっちあげである証拠. 三光作戦 関連文献 神吉晴夫 編『三光 日本人の中国における戦争犯罪の告白』光文社(カッパ・ブックス)、1957年中嶋嶺雄 編『歴史の嘘を見破る 日中近現代史の争点35』文藝春秋(文春新書)、年5月秦郁彦.

なんで日本軍の作戦名が中国語なんだよ。 「三無い運動」にしとくんだったなw. 三光作戦で始まる言葉の人名事典の検索結果。 - 80万項目以上収録、例文・コロケーションが豊富な無料英和和英辞典。. See full list on home.

「三光作戦(政策)」として最初に顔を出すのが、日本軍による抗日根拠地への掃討作戦でしょう。わが国の歴史教科書をのぞいて見れば、このことは簡単に確認できます。 〈 中国共産党の指導する軍民の抵抗に悩まされた日本軍は、 1940~43年にかけて、華北の抗日根拠地に対する攻撃のなかで、 「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」いわゆる 「三光作戦」をおこなった。〉 ― 実教出版、「高校日本史」 ― また、1998年春から使用された中学社会科(歴史分野)の例では、 〈 日本軍は、ナンキン占領後から翌年2月半ばまでに、 女性・子ども・捕虜をふくむ少なくとも15万人から20万人ともいわれる中国人を虐殺した。 また、日本軍は、共産ゲリラ勢力の強い華北の村々で、1940年ごろ 「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」三光作戦をおこない、民衆におそれられた。 こうした事実は日本国民に知らされなかった。〉( 日本書籍 ) 南京事件の犠牲者が「少なくとも15万人~20万人」というのは、教科書にあるまじき一方的な記述です。それに「三光作戦」が加わります。しかも後者の中学社会科の記述かは、三光作戦は「村民」をも対象にした見さかいのないものと受け取れる表現になっています。 こんな教科書を使って教育を受けるのですから、たまったものではありません。日本人の歴史観は中学生の頃からこのように叩き込まれたのですから、歴史観ひいては国家観がおかしくなって当然でしょう。 (注) 日本書籍の2005年以降に使用される中学社会科の記述は、この項の終わりに記述してあります。双方を比較するとなかなか興味深いことがわかります。 上の2例だけからも分かりますが、抗日勢力に対する掃討作戦を「三光作戦」と呼んでいるのは間違いないでしょう。 2つの教科書の「作戦時期」がこのように大幅に違うこと自体、「三光作戦」なるものが、いかにあやふやなものかを如実に示していると思うのですが、わが国の教科書にたずさわる専門家(歴史家など)は、大して気にならないようです。 また、“いわゆる「三光作戦」”などと、ぼかした言い方をしています。おそらく執筆者自身が確たる自信がないことの現われでしょう。 また、中国が非難する日本軍の「三光政策」は、「殺 光」に重点がおかれ、したがって、「殺光」が最初で、次いで「焼光または「奪光」となるのではありませ. 始めに; 三光作戦; 三光作戦の時期; 粛清建設3ケ年計画; 三光作戦の特徴; 記録・証言; 婦女暴行; 河北省野北村の虐殺; 東杏花村脳みそ粥事件; 河北省北坦村の虐殺と毒ガス; 河北省魯家峪の虐殺; 河北省潘家戴荘の虐殺; 河北省野場村の虐殺; 強姦に. 085株を割当て交付します。ただし、エーザイが保有す る 三光 純 薬 株式9,106,000株については、株式交換による株式の割当ては行いません。 三光作戦は、延安で発行された『 解放日報 (中国語版) 』の1941年7月7日、9月25日などで使用例があるという(当時の『解放日報』は、中国共産党の博古が責任者を務めていた)。. 三光 -殺光、焼光、槍光- 三光 作戦 本田義夫 私は1900年、三重県に生まれ、高等小学校卒業後、1920年徴兵、下士志願、1929年少尉候補生として陸軍士官学校に入校。.

ごく普通のの常識を持つ大人ならば、「三光」なる言葉は日本語にはなく、明らかな中国語なのですから、日本軍が「三光作戦」という作戦名を本当に使ったのかという疑問を持っていいはずです。日本軍将兵は「三光作戦」という作戦名のもと、本当に「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」ことに精を出したのでしょうか。 とんでもない間違いです。「三光作戦」に参戦したはずの将兵に聞いてみたのですが、だれひとり「三光作戦」を知りませんでしたし、「三光」という言葉も知りませんでした。一例だけ「三光」という言葉を知っていた大尉がいましたが、中国に関心を持つ大学出の「インテリ」でした。 にもかかわらず、参戦したとされる将兵が知らなかった作戦が、後世になって学生や一般人に知識として教え込まれ、やがて日本人の共通認識になる、というのですから、「気は確かか」といいたくなります。 いうまでもなく、このような結果を生じるには、“歴史学者”が重要な役割を果たしたはずですから、歴史学者の水準をうんぬんされて仕方のないことだと思うのですが。 また、「三光作戦」にあたる日本軍の作戦が「燼滅作戦」(じんめつさくせん)であったという解説をよく見かけます。おそらく、出所は『中国の旅』の注釈あたりだと思いますが、「燼滅作戦」という作戦が日本軍にあったのでしょうか。 まず、なかったと思います。といいますのも、かなり調べたからです。たしかに、「燼滅」という言葉は使用していましたが、それは作戦名として使ったのではありません。よく使われていた「殲滅(作戦)」「撃滅(作戦)」などと同様の使い方だったと思います。 三光 作戦 この指摘に異論のある向きは、三光作戦に相当する組織的大作戦、「燼滅作戦」があったという証拠を出してください。つまり何時から何時まで、何を目的にした作戦なのか、また参加した部隊は、作戦経過の概要は、それに「戦 果」も明らかにしてください。とくに「戦 果」は重要です。なぜなら、その「燼滅作戦」が「三光作戦」にあたるという主張なのですから。 もう一つ付け加えます。「三光作戦」なる用語、中国は使っていたのでしょうか。中国は「三光政策」と言っているのであって、「三光作戦」はこれに便乗した日本人の知恵者の創作、あるいはこれといった考えもなく 、短絡して「三光政策=三光作戦」と書いてしまい、それが蔓延してしまったと思うのですが、この指. 従来「三光作戦」による死者数については姫田光義氏が岩波ブックレットの『「三光作戦」とは何だったか――中国人の見た日本の戦争』であげた「247万人以上」という推定があった*1が、先日紹介した笠原十九司氏の『日本軍の治安戦』では「一般民衆で直接・間接に殺害された者が二八七万. 377) 岩波書店, 1995. 「三光作戦」という語は、 日本軍が作戦として、中国人民の集落を襲って殲滅させたという事を意味します。 そして、それは有り得ないと言わなければなりません。. 日本軍の治安戦と三光作戦 笠原 十九司 一 日中戦争と北支那方面軍 日中戦争の間(1937 年7 月7 日~45 年8 月15 日)、中国大陸で戦闘に従事した日本軍には、 総軍として関東軍(1919 年4 月~45 年8 月)と支那派遣軍(1939 年9 月~45 年8 月)があっ た。.

三光作戦はプロパガンダでした。 昭和12年(1937年)支那事変で南京攻略戦が行われました。司令官の松井石根大将は南京攻略に際して、注意書を定め兵士に徹底させています。. 次に、「三光政策」という相手を非難する言葉が、こんなところにも手軽に使用されているという例をあげましょう。 1987(昭和62)年9月、PHP研究所より 『中国文化大革命』という本が発刊されました。著者は厳 家其・高 皐という中国人の共著で、上下2巻の興味深い本です(左写真、上巻)。のちに、岩波から文庫本となっていたと思いますので、目にする機会はあると思います。 なお、厳 家其は中国社会科学院政治研究所長を歴任、アメリカに亡命しています。 上巻の副題は「毛沢東と林彪」となっているように、2人を軸に文化大革命(1966~1976)の内情が記されていますが、このなかに、次のように書かれたヵ所がありますので、引用します。 〈 彼ら(注・林彪一派)は軍内部において自己と異見を異なる幹部に対して、 「三光政策」(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす政策)に近い中傷迫害を実行した。 葉 剣英、・・、彭 徳懐ら高級幹部は 彼らの打撃からのがれ出ることは不可能に近かった。〉 ここに名のあがった彭 徳懐は、「百団大戦」を指揮した人物です。彭は文革中に失脚(左下写真)、失意のうちに世を去りました(後に名誉回復)。 また、ベトナム戦争(中越戦争、1979年2月~3月)時に、ベトナム軍の残虐行為を「三光政策」だと非難する解説、論評が中国のネット上にたくさんでてきます。これらの解説、論評が公的な見解かは(中国語音痴のため)、定かではありません。 こうなると、「三光政策」 なんて、相手を非難するさいに気軽に使う形容、ということになりそうです。それをご丁寧にも日本の学者先生が「三光作戦」と言い換えて、さもさも日本軍の作戦であったかのように、教科書や百科事典などに載せて非難、断罪する、まともとは思えません。 2006(平成18)年春から使用される中学社会科(歴史的分野)で、「三光作戦」の記述のある教科書は、日本書籍新社の一社だけです。 ご案内のように、日本書籍新社の前身は「日本書籍」ですので、事実上、同一出版社の教科書というわけです。最近まで4社が記述していましたが、ようやく1社に減少しました。もう一息でしょう。もっとも、高校用はまだまだですが。 「三光作戦」は本文ではなく、「欄外注」 に以下のように記してあります。 〈 日本軍は、1940年ころから華北の抗日根拠地をつぶすための軍事行動をおこ. デジタル大辞泉 - 三光作戦の用語解説 - 日中戦争下、日本軍が行った残虐で非道な戦術に対する中国側の呼称。 三光とは、焼光(焼き尽くす)・殺光(殺し尽くす)・搶光(そうこう)(奪い尽くす)。. ですが、「三光作戦(政策」なるものが、わが国で「歴史的事実」として取り扱われていることに疑いありません。 まず、終戦50年の節目の年(1995年)に発行された社会党 (当時)の「国会決議実現にむけて」とした約30ページのパンフレット(左写真)をのぞいて見ます。このパンフレットは公党としての社会党の「歴史認識」を記したものでしょう。 「過去に眼をとざすことはできない」とするタテ書きの副題を読めば、おおよその見当がつくように「ドイツは過去を清算した」のに、「日本は・・」というわけです。この党の党首が後にわが国の総理大臣に就任し、「村 三光 作戦 山 談 話」(1994=平成6年)に結実していきました。 南京虐殺につづく「三光作戦」は、次のように書いてあります。 〈 また、日本軍は中国全域で三光(奪い、殺し、焼きつくす)作戦を展開し大きな被害を与えるとともに 強制連行、強制労働などによっても膨大な犠牲者を出しています。〉 「中国全域」で三光作戦が展開されたというあたりが、まあユニークといえるのかもしれません。 また、百科事典や多くの日本の高校用歴史教科書に載っていることからも分かるように、また新聞を中心とする報道機関がいく度となく報じたことでも分かるように、日本で市民権を得てしまったのです。 ただ、「三光作戦」に関していえば、チャンスはまだあります。というのは、中学用歴史教科書では日本書籍新社の教科書だけになり、あとは消えたからです 。もう一歩です。 ・ 思わぬ効用があるかも もっとも、「三光作戦」の市民権獲得には思わぬ効用もあることはあります。それは、日本の近・現代史研究の水準がどの程度のレベルにあるのか、どうしてこういうバカなことが大手を振って歩いているのか、それを判断する格好の材料になりうるからです。 中国のいうことを真に受け、嬉々として報じたわがメディア、それに待ったをかけるどころか盲目的に追随した学者。なんとも処置ナシといったところです。 新聞の方を見てみますと、上の写真は1994(平成6)年11月24日付けの河北新報で、「半世紀の検証」と題した連載(♯16)の紙面です。 河北新報は宮城、山形、福島の3県で発行部数約50万、仙台市を中心に宮城県では圧倒的なシェアを有しています。また、頻繁に旧日本軍を断罪する記事のでること、朝日新聞も顔負けするくらいです。おそらく、地方.

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